その日学校から家に帰ると、俺は荷造りを始めた。
当時俺は教員住宅に住んでいた。
多分どこの都道府県にもあると思うのだが、教員向けに市区町村が住宅を造っている。と言っても全てではなく、田舎である。要は賃貸アパートがないような僻地に準備されているのだ。
大抵は古びた汚いところだが、家賃がアホほど安い。俺が二つ目に赴任したところの家賃は月3000円、最後の赴任地は10000円だった。
そして家族持ち向けなので、2部屋以上あり、単身の俺は広々と使えた。
単身だったとはいえ、荷物は増えに増えた。
仕事上のものもあるし、それなりの収入もあったので、家電も増えていた。
山のようなこまごまとした荷物を前に、教員を辞めるということも手伝って、俺はちんたらとしか動けなかった。
そんな俺を見て兄は
「何やっとるんや。お前は出てかなあかんのやぞ。迷惑かけたんやぞ」
と怒鳴った。
その通りだ。
この時は兄を信頼していたし、そして実際に頼りになった。
今、これを書いていて、あのときの兄に改めて感謝している。
兄はテキパキと荷造りをし、俺もそれに連れて無機質に動いていた。
次の日は実家から父と母も来てくれた。
実家は建築板金をしていて、軽トラよりふた回りほど大きなトラックを持っていた。
俺は引っ越しの度に父か兄に頼んでいた。
その日、学校からも何人か先生たちが手伝いに来てくれた。普通の授業日だったので、保健の先生やカウンセラーの先生など、授業を持っていない先生たちが校長の呼び掛けで来てくださったのだ。
荷造りは済んでいたので、トラックへの積み込みと部屋の掃除をわいわいと言いながらやった。もちろん、その輪の中に俺はいなかった。
俺はただ、ひきつった表情で荷物を黙々と運んでいた。
校長はほいこれ、とNHKの領収書を渡した。
よく部屋にNHKの集金が来ていて、俺はその度に居留守をつかっていたのだが、学校にまで来たようだ。
すみません、とお金を払おうとすると「いいいいい、餞別や」と受け取りを拒んだ。
そして、本当の餞別もくれた。
校長教頭はもちろん、他の先生やPTA会長さんのまであった。
荷載せを終え、掃除が終わっていよいよ退去。
部屋の鍵を校長に預け、手伝ってくださった先生方と併せ挨拶をした。
校長は最後も俺に
「悪かったな」
と言った。
そして兄には「万一マスコミが来たら本人の体調不良で辞めた、で通しますので」と伝えていた。
父母はトラックに乗り、兄と俺は俺のRAV4に乗り込んだ。
俺の10年間に渡る教員生活は、本当にあっけなく終わった。
(つづく)